ブラジルとペルー:世界遺産を巡る旅
Brazil and Peru: A tour around the World Heritage sites
5. クスコ City of Cuzco


いよいよ旅の後半、ブラジルからペルーに移動します。
一旦イグアスからサンパウロに戻り、さらにペルーの首都のリマに向かいます。

大西洋沿岸から太平洋岸へ、およそ5時間かけて南米大陸を横断。
途中、アンテス山脈が眼下に広がります。 雲に紛れていますが、頂上に近い部分は雪に覆われ、綿帽子がいくつかあるような妙な光景です。
雪に覆われているのは4,000mを越えるあたりでしょうか。

そしてボリビアとペルーの両国にまたがったティティカカ湖の上空を通っていきます。
写真は、丁度ボリビアからペルーに入ったあたり。

ティティカカ湖は富士山より高い海抜3,810mの高地にあり、面積は8562平方kmと琵琶湖の13倍近くある、とても大きな湖です。

古代に出来た湖で、古くから人々の暮らしを支え文明を育んできました。この湖を基点にしたティワナク文明は紀元前から8世紀ごろまで栄えました。
インカの最初の皇帝マンコ・カパックが、太陽神インティによってこの湖の深みからから引き上げられた、というインカの創世神話もあります。

海岸沿いのリマに着いたら、次の目的地は海抜3400mのクスコです。

1983年、クスコ市街は文化遺産としてUNESCOの世界遺産に登録されました。
文化遺産ですから、今回は歴史や文明史的背景情報も交えてご紹介してみます。

UNESCO
http://whc.unesco.org/


日本ユネスコ教会連盟:世界遺産
http://www.unesco.or.jp/contents/isan/


クスコの空港に着きました。
一足飛びに高地に行くと軽い高山病のようになるので、クスコの空港に着いたときにはゆっくり歩くように、と注意を受けました。確かに空気が希薄な感じがして、一歩一歩確かめながら歩きます。要所には酸素ボンベも備えられています。

長い旅路の果て、ようやくクスコ市街のホテルに到着しました。
ホテルの2階の部屋には屋根を切り取った形でバルコニーがあり、外を眺められます。

ホテルの半円筒の瓦屋根と向かい側のスレートの屋根。いずれも同じ赤レンガ色です。
これがクスコの色。
インカ時代の美しく精巧な石組みを基礎に、スペインのコロニアル風の建築物が積み重ねられ融合したクスコには、赤レンガ色の屋根が整然と連なり、独特な雰囲気が漂います。

ペルーの古都クスコは11〜12世紀頃に建設されたといわれ、1532年のスペイン人フランシスコ・ピサロによるインカ帝国征服までの約100年間は、インカ帝国の首都として栄えました。 1535年に物資輸送などの交通の便を考え、ピサロが首都を海岸沿いの現在のリマに移しています。

インカの人たちはケチュア語を話しました。ケチュア語はインカの発展とともに広がり、現在でもペルーとボリビアで公用語となっています。

しかしインカには文字がなく記録がありません。現在知られていることは当事者が残した記録ではなく、スペイン人が入っていった16世紀以降、多くのクロニスタ(記録者)が伝え聞き、調べて記録した年代記その他の文書に基づく歴史学が基本になります。 今後新たな技術を駆使した考古学や文化人類学を総合した研究成果が、期待されています。

インカの歴史は1438年に即位した9代の王、パチャクテク(パチャクティともいう)の時代以降がほぼ確定的とされ、これをもってインカ帝国の成立とされています。
「パチャクテク」とは「世界の改革者、あるいは変革者」を意味します。その名にふさわしくインカ王パチャクテクは国の版図を拡大したのみならず、社会構造の改革や制度改革を行い、クスコの都市機能を整備しました。

それ以前、11〜12世紀ごろからクスコに王国があったとされていますが、初代から8代の王までの伝承は確証に乏しく、歴史として確定には至っていません。

「インカ」というケチュア語の言葉自体は、とても多義的な性格を持っていたようです。
狭義にはその王国の最高権力者である王を頂点に、王族等の支配階級がインカと呼ばれていました。広く社会や民族もインカと呼ばれていました。さらには、民族の力の源泉といった抽象的な意味も含んでいたようです。

インカの王はケチュア語で「サパ・インカ」、唯一の王と呼ばれました。王族は血統を尊重するあまり、なんと近親結婚が通常行われ、王位は世襲でした。

インカの人たちは自分たちの国を「タワンティンスーユ」と呼んでいました。「タワンティンスーユ」とは、「4つの地域の連合体」という意味です。タワンティンスーユはスペイン人の現れる100年ぐらい前、パチャクテクの時代から勢力を大きく拡げ、南北4,000kmにわたる長大な国家となりました。

この「タワンティンスーユ」を「インカ帝国」と最初に記録したのは、インカ年代記のクロニスタの一人、スペイン人のフランシスコ・デ・ゴマラで、他のクロニスタもこの名称を使い、一般的になったとされています。皇帝という呼称も後日のことでした。

「クスコ」とはケチュア語で、「ヘソ」を意味します。
文字通りこの都市はインカ帝国、そしてインカを中心とする宇宙の「ヘソ」として、帝国を構成する東西南北の4つの地域(ス−ユ)への街道の基点となり、人々が集まるインカ世界の中心地とされていました。

4つの地域とは、クスコの北方にエクアドルまで広がる「チンチャイスーユ」、南側のチリやアルゼンチン北西部までを含む「コリャスーユ」、東側のアンデス山脈東斜面の「アンティスーユ」、西側の太平洋沿岸までの「クンティスーユ」です。

かつて城砦兼神殿のあったサクサイワマン(満腹の隼という意味)の丘からは、南に向かってこのようなクスコ市街が一望できます。

背後は緑の乏しい4,000m級の山々が連なります。
左端の山肌に"VIVA EL PERU"の文字が刻み込まれているのが見えます。

教会があり草花が植えられた大きな広場がクスコの中心のアルマス広場(Plaza de Armas)です。

クスコの街は9代王パチャクテクによって、地上の守り神ピューマの形を模して一新されたといわれます。 サクサイワマンの城砦兼神殿が頭、アルマス広場が心臓で、いずれもこの時に新設。アルマス広場はパナカと呼ばれる王族の黄金きらめく宮殿に囲まれました。

スペイン人の征服後、アルマス広場は彼らの都市のモデルに従って街の中心の広場とされ、教会がいくつも建てられました。それが現在の姿です。

アルマス広場から眺めると、北西方向、街灯のランプのあたりにサクサイワマンの砦跡があります。写真ではよくわかりませんが当時はさぞ威容を誇っていたのでしょう。

ベンチでのんびりしているのは街の人でしょうか。それとも旅の人でしょうか。

アルマス広場の西の角から東の方向に目を向けると、スペイン人の建設した大きな2つの教会があります。


広場の北東側正面にあるのがカテドラル、南米屈指の大聖堂です。クスコ大聖堂とも呼ばれています。

大聖堂のある場所には、往時インカの創造神ヴィラコチャの神殿があり、その右側に王家の武器庫がありました。

まず1536年から1539年にかけて武器庫のあった場所に小さな教会が建てられましたが、大聖堂を建築すべきということになり、1559年から神殿は土台を残して取り壊され建築が始まりました。サクサイワマンから石を運び、100年以上後の1664年にルネサンス様式の大聖堂が竣工しました。

ラテン十字形のプランに基き、大聖堂の両側には少し奥まって小さな教会が配されています。左側にはイエスーマリアーヨセフの聖家族教会、右側の武器庫の場所には18世紀にトリウンフ(勝利)教会が建てられています。

インカ帝国は太陽神崇拝の国、といわれています。 一方インカの創世神話では、ヴィラコチャが山や川など万物の創造者で太陽の父、とされています。

インカが勢力を拡大して他民族を吸収する中で、ヴィラコチャよりも一般的な太陽神崇拝が全面に押し出されて来たか、インカのヴィラコチャが周辺民族に受け入れられなかったのでしょう。
祈りの対象は太陽神インティに限らず、月、稲妻、山頂、そしてコンドル、ピューマ、ヘビなど自然の神も多く、さらには家庭と富の神や金属と宝石の神といった生活に密接したものにまで及んでいます。

天地創造者ヴィラコチャはなぜか、髭をたくわえた大柄な白い人、ということになっていました。 15世紀末になり白人が見かけられるようになって、インカの人たちは不吉な予兆ではないかと恐れていたようです。恐れはやがて現実となりました。

広場の南東側にはラ・コンパーニャ教会があります。
正式にはラ・コンパーニャ・デ・ヘスス教会。ヘススはイエス。イエズス会の教会です。

ここには昔は、11代皇帝の名前を冠したワイナ・カパック宮殿がありました。

ワイナ・カパック宮殿はカテドラル同様16世紀半ばに取り壊され、イエズス会によってファサードの見事なバロック様式の教会に建て替えられました。 その際、教会間でファサードの豪華さを競い合うようなことになり、ローマ教皇の耳に入る騒ぎにまでなったようです。

もとにあった宮殿の主ワイナ・カパックは、母親の出身地に近いキト(現在のエクアドルの首都)を第二の首都としインカ道をクスコから通すなど、タワンティンスーユの領土拡大と整備に大きく貢献しました。 しかし1527年に欧州人の持ち込んだ天然痘で死亡したとされています。

ワイナ・カパック亡き後、正室の子ワスカルがクスコで即位し、キトを本拠地としていた側室の子アタワルパは幽閉されますが脱出し、異母兄弟による内乱状態となります。
1532年にアタワルパはワスカルを破り、12代皇帝を名乗ってクスコに向けて南下します。

丁度そのころ、海岸沿いに南下してきたフランシスコ・ピサロとその一行も近くにいました。
ピサロは、1502年にコロンブスに代わってスペインからキューバに派遣された新総督オバンド率いる32隻の帆船と2500人の大部隊の一員としてキューバに渡りました。

苦労して下積みからのし上がりパナマで実績を積み、1527年に国王から南米ペルー方面への領地開拓の許可を得、2人の仲間と資金を工面し黄金を求めてやってきていたのです。

1532年、キトとクスコのおよそ中間点のカハマルカで、8万人の兵を擁するアタワルパと、わずか百数十人の部下を引き連れたピサロが対峙することになります。

ピサロは圧倒的な数の劣勢を巧みな策略により覆し、逆に油断していたアタワルパを急襲して捕虜にしてしまい、アタワルパは1533年に処刑されます。黄金のインカ帝国はあっけなく征服者の軍門に下ってしまいました。
その後しばらく地方に逃れた後継者が抵抗運動をしますが長くは続かず、1572年にインカ帝国は滅亡します。

カハマルカでインカ皇帝が捕虜になった時、インカの人たちがスペイン人を創造神ヴィラコチャと信じ無抵抗だった、と17世紀初頭にインカの首長が書き残した記録がマドリッド国立図書館で発見されています。

コロンブスが1492年にカリブ諸島を発見してから41年、1533年にフランシスコ・ピサロがインカを制圧しました。

それ以前、エルナン・コルテスがメキシコのアステカ王朝を制圧したのが1521年。スペイン人のコンキスタドール、征服者としての勢いは凄まじいものでした。
中南米の先住民、いわゆるインディオの犠牲も凄惨なものでした。

アルマス広場からカテドラルの横を通ってアトゥム・ルミユク通りに入っていきます。 <

ここにはかの有名な12角の石が石垣に組み込まれています。

確かに漆喰も使わず、様々な形をした石が一分の隙もなく見事に組み合わさっています。わざわざ面倒なことを巧みに成し遂げるのは、よほど腕に自信があり腕の見せ所だったのでしょう。

この石組みの技術はインカ帝国の100年で開発出来るようなものではなく、それ以前の昔にティティカカ湖周辺で発達し長い時間をかけて磨かれたものとか。

見事な石組みの例は、アルマス広場の近くにあるコリカンチャ(太陽神殿)にもありました。

神殿の一直線の石組みに混じって、わざわざ小さな石が埋められています。

これは石工の技術を誇るサインのようなものだそうです。
かつての太陽神インティの神殿、コリカンチャには、超精密な石組みで囲われた太陽、月、星、雷、虹などの部屋が並んでいました。 そして神殿の中も外も黄金の装飾で埋め尽くされていたそうです。
コリカンチャの「コリ」は黄金、「カンチャ」は居所を意味します。黄金で飾った太陽神の居所ですね。

ピサロたち征服者はこの神殿を見て目を見張り、息を呑んだことでしょう。

今は黄金色のレプリカしか飾られていません。
これはインカの世界観を表すレリーフです。 。

天空、地上、地下の3層に分かれていて、上に太陽神や天空の神のコンドル、中間に守護神ピューマの司る地上、そしてヘビが守護神の地下が描かれています。

この太陽の神殿は、黄金をすべて取り去った後、その上にドミニコ修道会によってサント・ドミンゴ教会・修道院が建てられました。 教会とも修道院とも呼ばれているようなので、ここでは両方を併記します。

サント・ドミンゴ教会・修道院のコロニアル風回廊です。

クスコ周辺には1650年、1950年と大きな地震があり、その度に教会・修道院部分は崩れましたが、土台の太陽の神殿部分はびくともしなかったそうです。

サント・ドミンゴ教会・修道院を出て、クスコの市街に戻ります。
北側は山の斜面になっていて結構な上り坂。

家の軒がずっと連なっています。

朝、アルマス広場の中央、カテドラルの左にある坂を小学生ぐらいの制服の子供たちが上っていきます。見るからにいい身なりで、坂の前まで車で送ってもらう子供もいます。

有名な私立の学校でもあるのでしょうか。
昔はこの向こうにインカのエリートの教育機関がありました。

さて、クスコのご紹介は以上です。



以下にさらなる背景情報を少々。

この南米シリーズの第3回イグアス国立公園 Iguazu National Parkでは、大航海時代のイベリア半島のカトリック教国2国とローマ教皇の関係、ブラジルに入ったポルトガル人とイエズス会、先住民のグアラニ族について触れました。
http://www.ktai-supli.jp/travel/200903.html


今回はアンデス地域の先住民の状況を。

アンデス地域では、15世紀までインカ帝国、さらにそれ以前の先住民は、西洋や東洋、特に一神教の西洋とはまったく異なる独自の文明を育んできました。

アンデス地域の特色は、海岸から4000m級の山脈まで水平距離500km程度で一挙に立ち上がっていることです。 そこに海産物から綿花、とうもろこし、ジャガイモ、高地のリャマやアルパカといった動物たち、そして塩田など実に多様な生態系があり、アンデスの住民はこれをうまく利用していました。この高度差による生態系の利用は米人類学者ムラにより「垂直統御(vertical control)」と名付けられています。

この地域の人々の生活の基本単位の核は、祖先を共有するという意識に結び付けられ首長(クラカ)により統括された、「アイユ」と呼ばれる血縁的親族集団の共同体でした。アイユでは土地や家畜などは共同体の管理下に置かれ、首長が宗教的儀礼を行うとともに、土地の分配や土地利用の資源の提供等を統括していました。これらのアイユが集まってより大きな首長国や王国に発展することもありました。

またその社会の底流には労働に基づく「互酬」、すなわち家族、共同体、共同体間の相互の助け合い、恵み合いの精神があったといいます。貨幣はなく、労働が交換の基本とされていました。首長と住民の間にも類似の「再分配」の関係があり、住民が労働力を提供するための場や原材料を提供し、きちんとご馳走を返したりしないと、権力の座が危うくなる危険性もありました。首長はこのような必要性に応じるために、各所に倉庫を作り、物資を蓄えたそうです。

神の保護を願う人間が生贄を含む儀礼によって神を崇めるのも同様の考え方に基づくものだったのでしょう。スペイン人にとっては、生贄こそが先住民を野蛮人とみなす主因とされていましたが。

鉄器や車輪を使用せず、精巧な石組みにより巨大な建造物を構築し、総延長4万kmのインカ道を造り、都市には原始的ながら水道を整備しました。脳外科手術をした痕跡も残っています。

自然のいたるところに神が存在し、「アイユ」というまさに生命体の細胞のようなとても柔軟な組織の構成法と、フラットな「互酬」ないし「再分配」という互恵関係を基本原理にした社会は、原始共産体制的でとてもおだやかなものと考えられます。

タワンティンスーユが巨大化していくにつれ帝国化し、統治の必要性から「互酬」や「再分配」の基本原理に変質が生じていた可能性は大です。

しかしインカにはそれまでに蓄積された莫大な資産、金銀財宝や織物、これを支える技術や文化がありました。これらは単にインカ帝国の時代に育まれたものではありません。
紀元前にさかのぼることの出来るチャビン文化、ティワナク文化、8〜9世紀ごろ全域に広がったワリ文化が考古学的に明らかにされています。

その後チャンカイ王国やチムー王国など、多様な地方勢力が各地に展開します。そのひとつにインカ王国があり、アンデス全域を支配するようになりました。この紀元前から16世紀まで綿々ときらびやかに展開されたのがアンデス文明なのです。

このように豊かな文明を基盤としたインカの世界は、滅亡していなければ、 どのような発展を遂げていたのでしょうか。

それを知るすべは、今はもうありません。