My Favorite Travels And Places
(私の好きな旅と場所)

9.クロード・モネの庭へ(Au jardin de Claud Monet)
その3.浮世絵とモネの庭

【はじめに】

“クロード・モネの庭へ”と題する3回の連載の3回目です。 前回その2.では、モネ自らが手がけたジベル二ーの“クロ.ノルマンの庭”“睡蓮の庭”を訪ねました。

<“睡蓮の庭”と日本の橋(太鼓橋) >


【ジャポニスム】(Japonisme)

今回は、“浮世絵とモネの庭”についてまとめますが、はじめにモネの作品にも大きな影響を及ぼしたジャポニスム(Japonisme:仏語)について少し紐解いてみたいと思います。

19世紀にヨーロッパで注目された日本の美術や工芸などは、中世13-14世紀のルネサンス(Renaissance:仏語)と同様に大きな影響を及ぼしたと言われています。

そのきっかけは様々ですが、主なものに浮世絵と19世紀にパリで開かれた万国博覧会を上げることが出来ます。

浮世絵がヨーロッパで美術家の目に止まるのは、1856年にフランスの銅版画家 フェリックス・ブラックモンが、銅版画の印刷所を営んでいた オーギュスト・ドラートルの仕事場を訪ねた時の事でした。

ブラックモンが、日本の美術品や工芸品の収集家でもあったドラートルの仕事場の片隅に、日本から送られて来ていた陶器などの梱包用に詰められていたパッキンの中に、赤表紙の葛飾北斎の描いた「北斎漫画」を発見し興味を持ったことに浮世絵の影響が始まります。

ブラックモンは、ドラートルと2年がかりの交渉の末「北斎漫画」を入手し、友人のゴッホ.ドガ.マネらに紹介したことから、画家仲間に広まり印象主義(派)誕生のきっかけの一つになったと言われています。

:フェリックス・ブラックモン(Felix Bracquemond 1833-1914年)
:オーギュスト・ドラートル(Auguste Delatre 1812-1907年)
:葛飾北斎(1760-1849年)
:「北斎漫画」(北斎が1812年頃に絵手本としてまとめた300余りのスケッチ画集)
:ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ(Vincent van Gogh 1853-1890年)
:エドガー・ドガ(Edgar Deges 1834-1917年)
:エドゥアール・マネ(Edouard Manet 1832-1883年)


いまひとつは、1867年のパリで開かれた第2回目の万国博覧会でした。

第2回目のパリ万国博覧会の開催にあたりフランス政府は、徳川幕府に日本からの参加の要請を行います。

そして、徳川幕府といくつかの藩から美術品や工芸品などが日本から出展され、あわせて徳川幕府最後の将軍徳川慶喜の弟徳川昭武を団長とする使節団がパリを訪れます。

それまでにも、日本の美術品や工芸品は、シルクロードや海の交易路によりヨーロッパの王族や貴族などに紹介されていましたが、この万国博覧会により多くの人の目に止まることとなります。

当初は、物珍しさと不思議の国からの出展に、日本趣味(ジャポネズリー=Japoneserie:仏語)と言われる流行が起こり注目されます。

やがて、日本から出展された美術品や工芸品などの繊細で特徴ある技術や技法.手法などを通し、その背景にある日本の文化や美意識へと目が向けられ、様々な分野に影響を及ぼし、日本主義(ジャポニスム=Japonism)と言われる潮流が起こり、新しい様式が醸成もされてゆきます。

又、このパリ万国博覧会の使節団の会計係として同行した渋沢栄一らは、ヨーロッパ社会の仕組や技術を学び日本へ持ち帰り、近代日本の礎が築かれ日本もヨーロッパから大きなの影響を受けています。

:徳川慶喜(1837-1913年)
:徳川昭武(1853-1910年)
:渋沢栄一(1840-1931年)


【モネと浮世絵との出会い】

モネは、1840年にパリで生まれ少年時代をノルマンディーの港町ル・アーブルで過ごし ウイジーヌ・ブーダンと出会い画家として歩みはじめます。

当時、日本とフランスの間には直接的な交易はなかったものの、ル・アーブルが大西洋貿易の重要な港であったことや、日本と交易のあったオランダ商船が寄港していたことなどから、水夫達が持ち帰った版画をはじめとする美術品や工芸品などが、骨董品店や画廊で見ることが出来、モネはそれらに大変興味を持っていたことが知られています。

モネは、1870年普仏戦争への徴兵を避け約9ヶ月間イギリスに渡ります。

そしてロンドンでロマン主義派の画家ウイリアム・ターナーらと出会った後の1871年フランスへの帰路オランダのザーンダムに滞在します。

モネの浮世絵コレクションの経緯はあまりさだかでありませんが、そこではじめて浮世絵を求めたと言われています。

ジベル二ーの自邸には、自らが求めたものや、画商を通して購入したもの人から贈られたものを含め、喜多川歌麿46枚.葛飾北斎23枚.歌川広重48枚をはじ211枚の浮世絵を所蔵しています。

そして現在も当時のままにモネの読書室.洗面室.妻アリスの寝室に廊下にと、浮世絵美術館さながらのコレクションが展示されています。

なかでも食堂には、浮世絵のみが掛けられ、決して自らの作品や他の画家達の絵画を掛けることはなかったと言われています。

:ウイジーヌ・ブーダン(Eugene Boudin 1824-1898年)
:ウイリアム・ターナー(William Turner 1775-1851年)
:喜多川歌麿(1753-1866年)
:葛飾北斎(1760-1849年)
:歌川広重(1797-1858年)


【浮世絵とモネの庭】

浮世絵とモネとの関係や作品との関連については、研究もされ多くの書籍も出版さ れていますが、モネは浮世絵の中に何を求め何をみていたのでしょうか・・・・。 。

モネ自らが試行錯誤や追い求めていたものを浮世絵の中に見出していったかのようにも思えます。

モネがジベル二ーに移り自邸を構えてからの庭づくりや作品には、浮世絵の影響が顕著に見られます。

特に“睡蓮の庭”とそれを題材とした作品には、日本の美意識にも共通するいくかの点が見られます。

 ・不規則性や非対称性
 ・事象や現象の象徴化.抽象化による再構成と具現的表現
 ・強調される事象や現象の一元化
 ・直線と円による構成と構図

それらに加え、一定の場所から季節や時間の変化を連作として描くといった手法も浮世絵と共通しています。

モネは、日本を訪れることはありませんでしたが、大の日本好みであったことに留まらず、日本の文化や美意識を見つめ続け、作品を通し創ることの本質を問い続けた生涯であったように思えます。

そして、モネの庭の中にも浮世絵とのかかわりがうかがえます。

“睡蓮の庭”を題材にした連作は、睡蓮をモチーフとした236点と、日本の橋と名付けられた太鼓橋をモチーフした18点が描かれています。

< モネが架けた日本の橋と名付けられた太鼓橋>


太鼓橋は、歌川広重の浮世絵「名所江戸百景 亀戸天神境内」に描かれていた太鼓橋をイメージして架けられたと言われています。

そして1987から1924年にかけて季節や時間を変えて、日本の橋(太鼓橋)の18点の連作を描いています。

<歌川広重「名所江戸百景 亀戸天神境内」>
(複製ポスターより)


<現在の亀有天神の太鼓橋(昭和12年改修)>


モネが歌川広重の浮世絵に見た亀有天神は、現在 昭和12年に改修されたコンクリートの太鼓橋が架けられ、5月には境内一面に藤の花を咲かせます。
しかし、広重もモネも見ることのなかった東京スカイツリー(工事中)が太鼓橋越しに望む景色に変わっています。

マネにも見てもらいたかった日本そして亀有天神は、私の好きな場所でもあります。

<亀有天神からの東京スカイツリー(工事中)>


モネの創作活動は、既成概念や伝統にとらわれない浮世絵の画風の中から、自由で解放的な独自の画風と印象派を醸成し、事象や現象の象徴化.抽象化.一元化などを再構成した具現的表現手法を残し、20世紀のジャクソン・ポラックやサム・フランシスなどのコンテンポラリー.アートの美術家達へと継承されています。

:ジャクソン・ポラック(Jackson Pollock 1912-1956年)

:サム・フランシス(Sam Francis 1923-1994年)

【参考図書.他】


・「ボナールの庭.マティスの室内・日常という魅惑」天野知香.島本英明 著 ポーラ美術館編修 (2009年)
・「モネの庭へ」南川三治郎 著 世界文化社 (2008年)
・「ジャポニズム-幻想の日本-」 ブリュッケ著 馬渕明子訳 星雲社(2004年)
・「もっと知りたいモネ 作品と生涯」 高橋明也著 東京美術(2010年)



【作者プロフィール】
相馬正弘(そうままさひろ)
・京都市出身
・設計事務所を開設し、地域計画.都市計画.公園計画を中心に活動中
・大学の講師として後進の指導も
・趣味は、旅行.テニス

新連載「My Favorite Travels And Places(私の好きな旅と場所)は
ケータイ・サプリwebマガジンのための書き下ろしです。
使用されている写真の著作権は相馬正弘さんと記載されている方にあります。