My Favorite Travels And Places
(私の好きな旅と場所)

39.常夏の楽園いやしの風が吹くハワイ

その4. ヒロ(Hilo)の津波復興都市計画について

【はじめに】

今回は、ハワイ島のヒロ(Hilo)を訪ねます。

ヒロは、ハワイ州ハワイ郡の郡庁所在地でハワイ島(Big Island)の政治.行政.経済の中心でオアフ島のホノルル(Honolulu)に次ぐ人口40,759人(2000年アメリカ国勢調査)の第二の都市です。

<ヒロの位置図>



ヒロの地名は、ハワイ語(ポリネシア語)の「新月(月夜)」を意味する美しい名月を見ることのできる地です。

又、年間降水量が3,092.6mm(※1)と東京の1,528.8mm(※2)の倍以上が観測され「雨の都」とも呼ばれています。
※1.1995-2004年の10年間のヒロにおける年間平均降水量(ヒロ市の統計書より)
※2.1981-2010年の30年間の東京における年間平均降水量(日本気候協会)

この雨の恵みを受け熱帯性の樹林やトロピカルフルーツにランをはじめとする花々が咲き競う緑豊かな街でもあります。

街の中心は、西のワイルク川(Wailuku River)と東のワイロア川(Wailoa River)に夾在する河口に市街地が形成され三日月形に湾曲しヒロ湾(Hilo Bay)に面しています。

<「雨の都」ヒロとマウナ.ケアにかかる虹>




【東日本大震災とヒロの街の共通性】

ヒロの街は、地球の造山活動に伴う太平洋プレートの地殻変動の影響を受けることや、活発な火山活動が周辺地域でみられることに加え、太平洋に面し津波の影響を受けやすいことなどが挙げられ、2011年(平成23年)3月11日(金)に発生した東日本大震災で被災を受けた東北地方太平洋沿岸地域と共通する地理的.地質的立地条件や特性を持っていると云えます。

今回は、ヒロの街が1800年以降に受けた6度の大きな津波で甚大な被災をこうむった1946年4月1日のアリューシャン地震津波と1960年5月23日のチリ地震津波を契機に策定されたヒロ市の津波復興計画(Kaiko’o Project)に視点を当て、その経緯と内容に復興の足跡を辿り、東日本大震災の復興を考える一助としたいと思います。


【近代ヒロの状況】
(出典:村尾修「ハワイ島ヒロにおける津波復興都市計画と最近の動向(2010年5月)」)

初めに、1946年と1960年の津波により被災する以前のヒロの状況を見てみますと…。

ヒロは、19世紀後半に砂糖きびとパイナップルの栽培の労働力の担い手として、日本.中国.韓国.台湾.フィリピン.ポルトガル.ドイツ.ノルウェーなどから移民を受け入れ、砂糖産業をはじめとする第1次産業の振興と発展の先駆けを築きます。

1800年代1,500人ほどのヒロの人口は、1910年に6,745人、1940年に23,351人へと急増します。

1899年には、ヒロとハマクワコースト(Hamakua Coast)を結び、砂糖やパイナップルの農作物の輸送と観光を目的としたヒロ鉄道(Hilo Railway=HCR)が開通し、近代的なヒロの市街地の整備も進められ、合わせて海上輸送の需要に呼応する港湾の整備も進み発展します。

1940年代には、市街地の海沿いに日系人の多く住むShinmachi(新町)やYashijima(椰子島)の居住地区も生まれます。


【ヒロを襲った2つの大津波】
(出典:村尾修「ハワイ島ヒロにおける津波復興都市計画と最近の動向(2010年5月)」)

順調に発展し、繁栄を続けていたヒロの街を、1946年4月1日にアリューシャン地震津波が、1960年5月22日にチリ地震津波にみまわれ、それまでの街が被災地に一変します。

・アリューシャン地震津波

1946年4月1日アリューシャン列島付近で発生したsM.7.8(表面波マグニチュード=Surface wave Magnitude)の地震による津波が午前7時前からヒロ湾岸や市街地の日系人居住地Shinmachi(新町)を中心に9回もの津波が襲い、約27ft(8.2m)の波高が記録されています。

ハワイ島で159人の犠牲者を数え、そのうちラウパホエホエ岬(Laupahoehoe point)の小学生24人がヒロの市街地で72人が亡くなり、建物被害は1500棟余に及び、ヒロ鉄道も被災しその後閉鎖されています。

・チリ地震津波

1960年5月22日チリのヴァルディヴィア(Valdivia)近海で発生した、sM.8.5(表面波マグニチュード)の地震による津波が夜中にヒロの街を襲います。
35ft(10.7m)を記録した第3波は、もう一つの日系人居住区Yashijima(椰子島)をのみこみ、ヒロの市街地で61人が亡くなり、建物被害は737棟余に及び、1946年のアリューシャン地震津波の傷の癒えないヒロに再び甚大な被害をもたらします。

<1946年と1960年の地震津波による浸水域図>
(出典:村尾修「ハワイ島ヒロにおける津波復興都市計画と最近の動向(2010年5月)」)




【Kaiko’o Project (津波復興計画)】
(出典:村尾修「ハワイ島ヒロにおける津波復興都市計画と最近の動向(2010年5月)」)

ヒロは、1800年以降6度の大きな津波の被災を受けています。
(1830年.1868年.1877年.1923年.1946年.1960年)
こうした被災を受ける中で1940年に都市の危険性についても意識し、土地利用・ゾーニング・インフラ・建築・区画規制・制御・防災・保健・衛生・教育などの内容によりヒロ市の都市計画マスタープランが策定されています。
(「Master plan of the city of Hilo」: December,1940)

本計画(書)には、地震と津波に対する具体的な記載されていないものの、都市における防災機能を持つオープンスペースの重要性を下記のように位置づけています。

1.リクリエーションの空間(Recreation Area)の必要性。
2.ヒロ湾の景観保全を前提とした都市景観資質の位置付け。
3.海岸沿い(Hilo Front Bay Areas)の建物や鉄道用地のオープンスペースやレクリエーションの空間として活用。

当時は産業興振などの優先性が高いと考えられたことなどにより、このマスタープランが具体的施策として施行されることなくその後に2度の大津波による被災を受けることに至ります。

しかし、1960年のチリ地震津波による被災を受けた8日後には、ヒロを再建する検討組織The Hawaii Redepelopment Agency(ハワイ復興協力組織)が設立され、津波に対する 復興と防災のためのKaiko’o Project(津波復興計画)が策定されます。

そして計画区域(図参照)を、次の区域に区分計画が指導します。
・地形の高い区域(Elevated Areas)
・商業制限区域(Limited Commercial Use)
・開放区域(Open Areas) 
・工業制限区域(Limited Industrial Use)
・公開(公共)空地(Open Use)

あわせてThe Hawaii Redevelopment Agency(ハワイ復興協力組織)が次の権利と義務を持つことががうたわれます。

1.土地の適性評価に基づく取得。
2.計画区域内.地権者.利用者に対する移転支援。
3.所有権譲渡時の土地の管理。
4.許容.許可されない建築物の撤去。
5.土地利用形態の選定と決定。
6.都市基盤施設の整備。
7.計画施設の配置。


このKaiko’o Project(津波復興計画)は、1940年に策定されたヒロ市都市計画マスタープランの構想があわせて生かされ、津波に対する防災都市への取り組みとして始動機能します。

<ヒロ津波復興計画(Kaiko’o Project)の範囲>
(村尾修「ハワイ島ヒロにおける津波復興都市計画と最近の動向(2010年5月)」中の図を著者が追記)



そうしてこれまでに津波で被災した浸水範囲の大半が、公園やゴルフ場.道路やそのグリーンベルトなどのオープンスペースへとつくり変えられてゆきます。

今日かつて日系人の多く住んだ日本人町のYashijima(椰子島)は、リリウオカラニ公園(日本庭園)に、Shinmachi(新町)はワイロワ州立公園の一部となります。

<津波で流出したかつての日本人町Yashijima(椰子島)の跡地に造られた日本庭園リリウオカラニ庭園>



<日本庭園リリウオカラニ庭園入口の鳥居>



<津波で流出したかつての日本人町Shinmachi(新町)の跡地に造られたワイロア州立公園>



又、旧市街地の街並みは復旧が図られ、歴史的建造物保全地区として景観保全が図られています。

<旧市街地は歴史的建造物保全地区として景観保全が図られています>



海岸沿いのヒロ鉄道の軌道やその駅舎跡は、国道19号やモンキーポッド(アメリカねむのき)やココヤシの並木の美しいグリーンベルトとして、新しいヒロの街の安全で快適な交通動線として機能しています。

<かつてのヒロ鉄道の軌道跡地は、現在国道19号やグリーンベルトとして利用されています>



<国道19号のモンキーポッド(アメリカねむのき)の巨樹>



ヒロ湾に接して残されたホテルや新しい建物は、低層階を高床式やピロティー式の津波を意識した構造で、高層階が避難階となるようにも建築されています。

<ヒロ湾沿いのホテルなどの建物は、高床式やピロティー式の構造となっています>




【市民意識に生きる津波へのそなえ】

1946年のアリューシャン地震津波から67年、1960年のチリ地震津波から53年、ヒロ湾に面して甚大な被害を被ったヒロの街は、緑と花の美しい街へと復興しています。

一方で津波に対する避難ルートの整備や避難広場の確保.災害時の必要情報の伝達システムの構築や、毎月一日正午にサイレンを鳴らすことによる津波への喚起など、市民レベルでの意識の高揚が図られるなどの取り組みも続けられています。

ヒロ湾に接する一角にPacific Tsunami Museum(太平洋津波博物館)が建設され観光施設として教育施設として活用が図られ、かつてのヒロ鉄道の歴史をとどめるLaupahoehoe Train Museum(ラウパホエホエ鉄道博物館)など津波による被災の足跡をとどめ記録し伝える施設なども建設されてもいます。

半世紀以上の時の経過の中で津波への記憶をとどめ、復興と被災と犠牲者への鎮魂の思いが伝わってくる敬虔な思いを起こしてくれるヒロの街は、私の好きな場所でもあります。

又、ヒロへの旅は、東日本大震災からの一日も早い復興と人々のやすらかな思いと生活が取り戻されることを祈らずにはいられない旅でもあります。



【参考図書】
・アメリカ大使館資料情報室資料(Hawaii2011年)
・Hawaii Nature Explorers(2008年)
・「ハワイの歴史と文化」中公新書(2002年)矢口祐人著
・「ハワイ島ヒロ市の日系人移民町」
  早稲田大学大学院人間科学研究修士論文(2002年)吉田裕美

【参考文献.引用文献】
・ハワイ島ヒロにおける津波復興都市計画と最近の動向
 (社)日本都市計画学会.都市計画報告集No.9.2010年5月
 筑波大学大学院システム情報工学研究科  村尾 修











【作者プロフィール】
相馬正弘(そうままさひろ)
・京都市出身
・設計事務所を開設し、地域計画.都市計画.公園計画を中心に活動中
・大学の講師として後進の指導も
・趣味は、旅行.テニス

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使用されている写真の著作権は相馬正弘さんと記載されている方にあります。